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沖縄に生まれた意味~慰霊の日に想う~

 2014-06-23
私は、「沖縄人」と「静岡人」のミックスであり、
苗字そのものは、静岡出身である母のものを継いでいる。
父の苗字には愛着がない。

そして、祖父である「福太郎」(母の父)は、元日本兵。
残っている資料によると、海軍の人間だった。

祖父は、あまり戦争のことを語ろうとしなかったそうで、
私が1歳半の時、私を連れて里帰りした母が、
ようやくその片鱗を聞くことが出来たそうだ。

その頃の祖父は、既に脳梗塞で倒れた後で、
ほぼ寝たきりの状態。細かい状況まで説明することの出来ない中で、
母に語った、ひとつの事実があった。

祖父は、海軍として、南方戦線に出撃したそうだ。
そして、出撃途中なのか、帰還途中なのかはわからないが、
自隊の船が遭難し(砲撃を受けた?)、祖父は海へ投げ出された。

そして、漂流していた祖父ら兵士たちを救助したのが、なんと
「沖縄の船」だったと言うのだ。

漁船なのか、なんなのかもわからない。
本島の船か、宮古の船か、八重山の船か、細かいことはわからない。
なぜなら「言葉がわからなかった」から。

それでも「沖縄の船」であることは認識していたようだ。

そして、「沖縄の船」に救助された祖父は、命からがら、本土へ帰還。
兵士としての役目を終え、家に帰ってきた。

祖母が、母を身ごもったのは、それから後のコトだ。

つまり、「沖縄の船」に助けられていなければ、母は生まれていない。
ということは、私の存在もなかっただろう。

おそらく祖父は、沖縄に渡り、沖縄の男との間に生まれた、
沖縄出身の孫を連れて里帰りした母に、
その事実を話しておきたかったのだろう。


「沖縄の船」に助けられ命を永らえた祖父。
その後産まれた娘(母)が、海外旅行として出かけた沖縄で「ナンパ」され、
一度は地元に戻るも、適齢期になり「早く嫁に行け」的な圧力を受け家を出され、
行く場を探した娘が頼ったのは、沖縄で自分に声をかけた地元の男(父)。
そして、その男との間に生まれた「沖縄出身の」息子。

これは、なんたる因果か。

「沖縄の船」に祖父が助けられたことによって、
私は「沖縄で」生まれることが出来たのだ。

私の本籍は相変わらず静岡県にあり、
「沖縄県在住」ではあるけれども、純粋な「沖縄県民」ではない。

ただ、私が誕生する大きなきっかけが「沖縄」であることに間違いはない。

となれば、私は「沖縄」に恩返しをしていく義務がある。

大きなことは出来ない。ただ、ほんの「小さい」ことでも、
私は、私自身の生まれ故郷であり、私が生まれることを可能にしてくれた、
この沖縄という島のために、これからも、生きていきたい。


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劇団O.Z.E「一瞬」 ~演劇から受け取るべきこと

 2014-06-02
久々に劇評的なものを。かなり長文になりますので、お時間のある時に。

本日(6月1日)、那覇市のてんぶすホールで、
劇団O.Z.Eの公演「一瞬」を観劇してきた。



2005年4月25日、兵庫県尼崎市で発生した「JR福知山線脱線事故」を基にした作品だ。

まずは、脚本と演出を手がけた永田健作さんに敬意を表したい。

実在の事件・事故を演劇・映画・ドラマで扱う場合、
作者には相当な勇気が求められる。

なぜなら、事故・事件に対する見方が、立場や原因の見解によって異なるので、
どう作っても多少の批判に晒されてしまうからだ。

その勇気を押し切ってまでも作品として取り上げたかったのは、
永田さんなりの、事件に対する想いがあったのだろう。

事件そのものの状況については、
詳しく説明しているサイトがあるので、そちらを参照いただきたい。

ウィキペディア「JR福知山線脱線事故」

国土交通省・西日本旅客鉄道(株)福知山線における列車脱線事故について

福知山線脱線事故・事故調査報告書




さて、演劇「一瞬」であるが、
大きく分けて5つの場面から成っていた。

冒頭、いきなり事故発生時の場面から始まる。
吊革を掴んで立つ乗客。
背景には、実際の福知山線運転席からの映像が流れる。
衝撃音とともに、暗転。
舞台に轟く、乗客たちの悲鳴、嗚咽…。

その後、場面は、
事故当日の朝の風景に切り替わる。

ミュージシャンの男性と、その恋人。
恋人は就職活動中で、面接に出かける。
彼女が出かけた後、彼は彼女の忘れ物を見つけるが、
その封筒には婚姻届が入っていた…。

妊娠している妻と、その夫。
朝食の時間だが、体調の思わしくない身重の妻に、
冷たい態度で接する夫。その関係性はギクシャクして見える。
イラついた表情を見せながら、夫は出勤する…。

遠足に出かける娘と、その母。
母は、娘に過干渉しているように見え、
髪をセットしてあげたり、お弁当を持たせたり、
お小遣いをあげようとするが、娘は全てに反抗的な態度をとり、
我慢しきれなくなり、暴言を母に浴びせ、逃げるように家を出る。


場面が、事故直前の伊丹駅のホームに移る。

身重の妻に冷たい態度で接していた男が、電車を待っている。
そこへ、母親に暴言を吐いてきた娘が走ってくる。
その様子が気にかかった男が、娘に話しかける。
会話をするうち、電車が入ってくるが、オーバーラン。
位置を戻した列車に二人が乗り込む。

そして、事故発生。(ここでの描写は轟音のみ)

続いての場面は、事故から数日が経った、とある病室。

全身を包帯で包まれたとある男性乗客に、新聞記者が取材をしている。
フラッシュバックに震えながら、事故の状況を証言する彼の手には、
朝、母親と喧嘩して家を出てきた娘の携帯電話が握られていた。

病室にやってきた娘の母親に、土下座をしながら電話を返す乗客。
その乗客の救助にあたった男性は、新聞記者の取材行為を激しく糾弾。
夫を失った身重の妻は、その乗客から、絶命間際の夫が発していた言葉を聞き、
激しく号泣する。

病室を出たとある場所で、娘を失った母親は、
娘に対する自分の無理解を嘆いて泣いた。


最後の場面は、事故から9年後の、とある警備室。
事故現場に設置されている献花台を警備する警備員が3人控えている。
事故を知らない若い警備員は、事故はいずれ忘れられるし、自分に無関係と
無神経に笑う。
しかし、同僚の警備員の一人は、1両目で事故にあった乗客で、
もう一人は、結婚間近だった恋人を失った元ミュージシャン。

献花台を前に彼は、空に向かって、もう一度会いたいという叶わぬ願いを呟く…。




演劇「一瞬」は、事故を乗客側から描き出し、
ありふれた日常を寸断され、遺された人たちの苦しみと後悔を描き出していた。

毎日の何気ない一言や行動が、とても大切でかけがえのないものであることを
事故を題材にしたメッセージとして伝えており、
もし自分の愛する人があの電車に乗っていたら…という想いで観て欲しいということを
脚本の永田さんも訴えられている。


このようなドキュメンタリー演劇には、大きな役割が2つあると思っている。
1つは、脚本家や役者、制作者側が演劇を通じてメッセージを観客に提示すること。
そして、もう1つは、それを受け取った観客が、それぞれの解釈でその想いを「実践すること」。

多くの人は、この演劇に「日常の大切さ」と「そばにいる人の大切さ」を感じるのだろう。
行動に表わすとしたら、例えば、恋人やパートナーに優しく言葉をかけるようにするとか、
子どもに対する叱り方を変えるとか、そういうことだろうか。


ただ、私は、それ以上に「じゃあ、今後どうすればいい?」ということを深く考える。

日常を失うことがないようにするために、
大切な人を失うことがないようにするために、
同じことを2度と繰り返さないためには、どうすればいいのか。
そして、事故を他山の石とするためには、どうすればいいのか。

実は7年前、私はホームページのコラムとして、この事故について書いている。

「運転=操縦は、高等技術である。」

まずは、公共交通機関の安全対策。
鉄道だけではなく、飛行機、旅客船、バス、タクシーに至るまで。
乗客を乗せる「運転者」「操縦者」の技術と意識の向上、職場環境の整備を
しっかり整えなくてはならない。

それは、会社側だけの責任ではなく、
乗客側も、乗務員の態度や会社の雰囲気、経営体質を
常日頃から注視しておく必要がある。

演劇の中で、救助にあたった男性が新聞記者に
「目の前で人が死んでいくのに、救助にも加わらず取材していた」と
訴えていたが、記録は必要だ。
もちろん、その手法に問題はあった。(ヘリの騒音など)
だが、「こういう事故があった」ということを、
映像や写真、文献に残すことは重要だ。
だからこそ、事故から9年たった今、事故とは無関係そうなこの沖縄で、
沖縄の劇団が、福知山線の事故を取り上げたことは、
大きな意味があると思う。
もし、観劇した人の中に、交通機関で働く方がいたら、
自分たちの仕事に慢心することなく、改めて安全対策について
再確認をして欲しい。

そして、それ以上に問われるのは、
個人ドライバーだ。

福知山線の事故は、一度に同じ場所で107人もの死者、562人の負傷者を出し、
事故の惨状が全国に生中継されたこともあって、衝撃的な事故として記憶に残っているが、
昨年(平成25年)1年間のうち、交通事故で
24時間以内に亡くなった人は全国で4,373人、
重傷者は全国で44,547人いるのだ。(警察庁統計より

私は正直、マイカーは禁止すべきだと思っている。
私が自動車免許を頑なに取得しないのは、
そもそもあれだけの大きなマシンを操縦する自信がないのと、
無くなることのない交通死亡事故への抗議の意味がある。

簡単に免許を与えすぎるんだ。
運転が苦手な人や、適性がない人には、軽々しく免許を与えるべきじゃないんだ。
そもそも、運転免許が日本において、身分証明書みたいな風潮になっているからよくない。
自動車の運転ができない人は、日本国民として認められないのか?
そこが大きな疑問。

自動車は、一歩間違えれば殺人兵器。
だからこそ、免許を取得したドライバーは、その自覚を持って日々運転してほしい。
昔のコラムにも書いたが、運転は「高等技術」なのである。
「自分の命」と「他人の命」を預かっていることを肝に銘じながら運転して欲しい。
免許をもらうということには、それだけの責任が伴うのだ。

福知山線の事故から得られる教訓は、大きな鉄道会社の問題ではなく、
アナタが握っているハンドルの問題なのだ。

そして、そのことをメッセージとして受け取ることが出来るかどうかが、
観劇する者の感性として問われている。


最後に、いくつか記事をご紹介して、今回の記事を締めくくる。
まずは、事故現場の現状と今後について書かれた記事。

福知山線脱線事故から9年、現場保存をめぐる動きはいま


そして、放送に携わる者として、とても気になる記事をふたつ。
謎…というか、真実はどこにあるのか。報道機関は、それを究明する立場にあるが、
何らかの「力」が働いたのなら、由々しき事態であり、恐ろしい話である。

福知山線事故:白い車の謎 / 写真解析

【報道から消えた李嘉晃】福知山線事故の謎【ワゴン車証拠隠滅】

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